これまでの活動①(あやね)
引き続き、blog担当あやねがお送りします。
前回の投稿では、私とあいくる"AICL"の出会いについて少しだけお話ししました。
今回は、これまでの活動に触れていこうと思います。
ここまでおよそ10年の時が経っているため、少しずつ思い返しますね。
大学の掲示板で見つけた1枚のチラシ。
「山の上の日本語教室」学生ボランティア募集のご案内。
私(あやね)とAyanaとが代表(福井)と出会うきっかけになったものです。
当時、代表(福井)は神戸市立海外移住と文化の交流センターの1室で、日本に暮らす外国人のための日本語教室を開講していました。その日本語指導ボランティアとなる学生を探していたところに、私(あやね)とAyanaが現れたのです。
ここで、たくさんの、さまざまな境遇の外国人の方々に出会いました。
長らく日本に暮らしており、日本語を話すことには何の不自由もない日系ブラジル人3世の老夫婦。しかしながら、読み書きはポルトガル語しかできません。小学生ドリルの「ひらがな」「カタカナ」から始め、「小学1年生の漢字」「小学2年生の漢字」と少しずつレベルアップしていくなか、毎週日曜日の授業時に日々の成果を教えてくれました。
「道を歩いていたらね、『外科』『内科』って書いてあったの。病院のことだったのね!」
「新聞を見てみたら、読めるところがあったんだ!まだまだ全部はわからないんだけど」
「毎日、街を歩きながら、いろんな看板を見るのよ。どっちが速く読めるか競争することもあるわ」
日々、不自由なく暮らしているように見えるお二人にとって、日本語の「文字」は「暗号」でした。でもそれは、少しずつ「意味のあるもの」へと変わっていったのです。
イランから来た女性がいました。
彼女はペルシャ語、英語が堪能です。日本で生活することになり、日本語の勉強を始めていました。外国人が受ける日本語の試験である、「日本語能力検定」受験のため、細かな文法の習得が必要でした。今では、日本人を相手に「ペルシャ語教室」を開講しています。
留学生として日本にやってきた中国人女性もいました。
カタコトの日本語から、「日本語能力検定1級」取得にいたるまで、努力を続けた方です。大学在学中、自身の学習と同時に、地域の小学校に通う外国人の子どもたちの日本語教室も手伝ってくれました。生徒であると同時に、日本語教室のボランティアとしても活躍、その後、日本人ビジネスマンを中心に中国語指導をしています。ボランティアとして小学校に招かれ、中国について紹介することもあるようです。彼女は今でも、多くのイベントをともに支えてくれる存在です。
印象的、というよりも、私の凝り固まった固定観念を打ち砕いてくれた特別な存在。
それが、とある南米出身のご夫婦でした。
意欲的で熱心に学ぶ女性に対して、母国の楽器(笛のようなもの)を持参しその腕前を披露してくれる男性。時間にもルーズで、突然の欠席、30分や1時間の遅刻は日常茶飯事。
とはいうものの、悪気は一切ない。学びたいから学ぶ。聴かせたいから演奏する。時間はあくまでも目安で絶対ではない。
日本では当たり前のことが通用しない現実に、最初は戸惑いばかりでした。なぜ彼らは時間を守らないのか、どうして彼は日本語教室に来てただ話しているだけなのか。この理解できない状況が、私にとって何よりも大きな「ちがい」との「出会い」となりました。
「時間は必ず守るものだ」
「教室では必ず勉強しなければならない」
日本人である私たちにとっては、もはや説明の必要もない「前提」です。「当然」だと思い込んでいて、「できない」ことは100%悪いことであり、責められても仕方のないことだと考えられています。
しかし、世界はそうではなかった。
だれもが同じ共通認識のもと、暮らしているわけではなかった。
当たり前だと疑問すら持たなかった考え方・感覚は、必ずしも絶対ではないのかもしれない。人と「ちがう」ことは、自然なことなのかもしれない。
みんなと「同じ」であることが重要な場面もあります。けれども、「ちがって」いてもいいのです。そう思えたとき、スッと肩の力が抜けていくのを感じました。
世の中は、案外「生きやすい」のかなと思えた気がします。
長くなりましたが、私があいくる"AICL"の活動を通して「叶えたいこと」のひとつ、“「生きやすさ」を知ること” はここから始まっています。
次回、「山の上の日本語教室」から進んでいくこととなる「お茶会」、「月1イベント」のお話ができればいいなと思います。
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